日本語での情報の拡充と英語での発信の重要性

 また、本書の内容とは直接の関係はないが、英国史など西欧史に比べるとアジア史は圧倒的に研究書の翻訳が足りないとも感じた。確かに専門の研究者は英語・現地語で対応するし、マーケットがこれまで比較的小さかったことが理由だろう。

 このほか、翻訳が研究業績としてあまり評価されないという斯界の問題もある。しかし、本書のように知的啓発に富む作品は是非邦訳され、歴史好きのビジネスマンや大学生にも読んでいただきたいと思う。そもそも同じ歴史学者でも、他地域について教科書程度の知識しか持ち合わせないことも多いのである。

 筆者が授業で(実行の度合いはともかく)議会や憲法導入がオスマン帝国では日本より早かったと言うと、たいていの学生はとても驚く。

 イスラム国に対する偏見がはびこる理由は、日本語でアクセスできる良質な情報がいまだに相対的に少ないことにも求められるかもしれない。ただし、オスマン帝国史など最近日本語でも良質の研究書が増えつつあり、是非書店などで手に取っていただきたいと強く思う。

 また、従来よく言われていることであり、過度に強調すべきではないが、トルコと日本の歴史のパラレルな部分など改めて興味を引かれる。

 筆者はテズジャン氏とは面識がないが、彼が学んだプリンストン大学のオスマン学・トルコ史には共通の知人が多い。昨年スタンフォードの学会で知り合った1人と交わした移動のバンの中での会話は楽しかった。

 筆者と同世代の彼は、自分の親世代は皆エンジニアなど技術者志望であったが、次の自分の世代は「食えない学者志望」だと笑っていた。自分も企業戦士・技術者の息子世代で、叔父たちが日本企業の技術者だったことを伝えると、ずいぶんと打ち解けた。

 もっとも「食えていない」と言っても向こうはプリンストンで学位を取っている。英語での発信力には雲泥の差がある。

 繰り返しだが、これからは欧米で教育を受けたアジア研究者の躍進にもきちんと目を向けていかなければならないのであろう。「知の循環」という意味では人文学にとどまる話ではないように思える。

 限界が様々に指摘される中で、知的なグローバル世界の可能性を考えさせる読書であった。