ところが、韓国人にとってはタフトという名は忘れられないという。ただし、大統領としてではなく、陸軍長官時代の1905年に、日本の桂太郎首相と桂タフト協定を結んだことによってだが・・・。

 この協約は、日本が韓国を、米国がフィリピンを支配することを認め合ったもので、日英同盟やポーツマス条約と合わせ、大韓帝国に対する日本の支配権を列強が認めた形になったことから、米国への不信感を示す象徴的出来事として今にまで記憶されているというのである。

 そんな協約が結ばれてから間もない頃、遠くオスマントルコでは、日露戦争での日本の勝利に沸いていた。もちろん、長年の宿敵ロシアの敗戦を喜んでのものなのだが、同時に、日本への友好感情あってのものだった。

トルコの日本に対する友好感情の起点、エルトゥールル号

イスタンブール

 そうした感情の起点となったのが、1890年、紀伊半島沖で起きたオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事故。

 587人もの死者を出す大惨事に対し、地元住民、そして政府を挙げての救援活動で69人を救出、翌年にはイスタンブールまで送り届けたことが、トルコの日本への好印象をもたらしたのである。

 今に至るまでトルコ人の間では広く認知されていると言われるこの事故は、日本人にはあまり知られていない。

 ところが、1985年、イラン・イラク戦争時のイランで、急の脱出に迫られた215人の日本人をトルコが救出、その時、エルトゥールル号遭難事故の恩義に報いた、と語ったというのである。

 こうしたことがあっても、なおほとんどの日本人の記憶の中に、エルトゥールル号は刻まれていないわけだが、そんな現状に、一役買ったのがまたも「サクラ外交」。

 悲劇から120年経った2010年、「さくらプロジェクト」で日本から運ばれた3000本の桜がトルコ各地に植樹されたのである。

 こうして日本から桜を贈られた米国やトルコだが、サクラの木が少ない、というわけではない。むしろ多いと言った方がいいだろう。