ここまでの連載で、福島第一原発から放出された「放射能雲」が通った下にいた人々の現在を報告してきた。行政区分で言うと、主に福島県南相馬市と同飯舘村である。

2011年4月末時点における「福島第一原子力発電所から80km圏内のセシウム134、137の地表面への蓄積量の合計」
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 福島第一原発から、近いところで10キロ、遠いところで40キロくらいの距離にある。文部科学省が発表した「文部科学省と米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の図で言えば、原発から北西方向に伸びる赤~黄色のベロのような部分だ(右の図)。それだけ深刻な放射能汚染に見舞われたということだ。

 原発のお膝元である大熊町や双葉町ではない南相馬市や飯舘村に取材の焦点を合わせたのは、理由がある。大熊町や双葉町は、事故翌日の3月12日から住民が避難したことが報道されている。ところが、飯舘村の全域と、南相馬市の北側3分の2は、政府の決めた危険地帯=立ち入り禁止ゾーン(警戒区域。原発20キロラインの内側)にすら入っていない。つまり政府は住民に「危険だ」という警告をしなかった。

 住民は、同月12~16日にかけて、放射能雲が通った真下にいた。高濃度の汚染で全村民6000人が退去に追い込まれた飯舘村ですら、避難が決まったのは、4月22日である。つまり住民たちはまったく警告されないまま丸腰で被曝してしまったのだ。

なぜ住民たちは行く先も分からずに逃げたのか

 住民たちの取材を続けるうちに、あることに気づいた。話を聞いた全員が「マイカーに乗って、どこまで逃げていいのか、行く先も分からないまま、てんでバラバラに逃げた」と証言したのだ。

 私は素朴に考えていた。てっきり、原発の周辺の市町村は「万一」の時には住民を集団でバスに乗せ、あらかじめ決めておいた避難先に運ぶ段取りを決めているものだと。そうしないと、放射能雲が流れ、下にいる住民が被曝してしまう。

 こんな疑問が湧き上がってきた。原発からの距離を、チェルノブイリ事故の時の放射性物質の飛散状況と照らし合わせると、飯舘村も南相馬市も、原発事故が起きたら避難が必要なことは分かっていたように見える。ならば、避難訓練はしていなかったのだろうか。どこに集まって、何の交通手段で、どこに避難するという避難計画はなかったのだろうか。避難計画や訓練はあったのに、混乱のあまり、住民が守らなかっただけなのだろうか。