人が何かを始めるには必ず動機があるものだ。

 少年時代に歴史小説や伝記を読み耽(ふけ)ってばかりいたせいかもしれないが、この世に生を受けて男として生きるということの概念は、社会を、世界を、天を己の燃え上がる情動にて突き動かすことであり、その歓びと苦痛に身を投じるような悔いのない生き方をするのが「男の生きる道」と、おぼろげながらに思い描いていた。

 社会に出てサラリーマン編集者という生業を20年近く続け、ひとときの精神的快楽と苦悩を味わうことを繰り返し過ごしてきたが、35歳を超えたあたりから仕事で味わえる感慨も次第に薄れ、ただ、一日一日を消耗する怠惰とも言える日常は、少年時代には思いもよらないほど無力で惨めなものと、時を経るごとに次第に強く感じ出したのである。

生きる環境を変えたい

 気がつけば40歳、独身。なので子供もいない。いくつかのささやかな瞬間的な歓びは人並みには経験してきたが、社会に出てからは経営者に搾取されることに疑問を抱くも反骨するには至らず、どちらかといえば従順とも言える労働者人生を過ごしてきた。しかし、だからといって別にヤケに生きてきたというわけでもなく、大局的なことは何も考えない野に放たれた犬のような状態を、どちらかというと愉しみながら、カネは趣味、酒、女、と煩悩の赴くままに、霧散してきた。

 携帯電話の普及や諸物価の急激な値上がりなど世の中の構造的変化で、青息吐息だった出版業界の斜陽は一段と鮮明になり、私は長年勤めた出版社を辞し、己の生きる環境を新たに変えたいと、行動を起こすきっかけをいつしか窺うようになった。人はぬるま湯にはいつまでも浸かり続けるが、己の行く末に起こりうる危機を案ずるようになると、変革を起こしたがるようだ。

 浪費癖は強くあるものの幸い借金はなく、時折り偶発的幸運により舞い込む泡銭が、わずかではあるが銀行口座の底で、心許なくも、たまたまじっと動かずに身を潜めていた。

 人間は若い頃には、将来、女優のようないい女と結婚するとか、入社した会社で出世して社長になるとか、事業で成功して豪邸に住むといった夢を思い描く。そうした妄想的放言に対して世間は比較的寛容である。

 しかし、40歳を超え、その人の取り巻く環境から、人生の先、いわゆる可能性の全貌が姿をあらわしてくると、希望的妄想につき合ってくれるほど社会は忍耐強くはない。妄言は、吹聴したヤツの信用問題や人間性にはね返ってくるものだ。