当時のことをフェデラーはインタビューで次のように語っています。「ずっとホームシックでいつも家に電話していた。全部投げ出して家に帰りたかった。そんな誘惑と必死に戦った」(『The roger federer story -Quest for perfection』より、以下同)

 また、母親のリネッテさんもインタビューで「私たちが押し付けたことではありませんでした。自分の意思で私たちの元を離れたのです。そのことがどれだけ彼にとって素晴らしい結果を生み出すことになったのか、時間が経ってから彼も理解したと思います」と語っています。

 2つ目が母親の厳しいしつけといいます。ジュニア時代のある日、加藤氏とフェデラーが一緒に暮らしていた寮の部屋へ、フェデラーの母親が訪問してきた時のこと。部屋の汚さを目にすると、母親はフェデラーのことを怒って叩いたそうです。

 加藤氏はあの厳しさを忘れられないと言います。日本ではスパルタの教育ママと言われそうですが、フェデラーはそのような母親の元で育っており、その教育こそがその後の精神的な大きな礎になったのではないでしょうか。

恩師の死を乗り越えて

 3つ目は恩師の死といいます。加藤氏はフェデラーと共にスイスナショナルテニスセンターでオーストラリア人のピーター・カーター氏から指導を受けました。

 カーター氏はオーストラリアからスイスに移住し、スイスナショナルテニスセンターに住み込んで指導を行いました。

 カーター氏は当時のインタビューで「ロジャーのポテンシャルは計り知れない。ロジャーは精神的に大きく成長しているが、プロ選手として大成するためにはさらに自制心を培う必要がある」と語っています。

 2002年8月1日、カーター氏は南アフリカで休暇中に自動車事故で亡くなります。フェデラーはインタビューでカーター氏のことを次のように語っています。

 「彼の死はつらくてたまらない。彼のような親しい友人が亡くなったのは初めてなんだ。テニスで負けるのとは比べものにならないほど悲しい。ピーターは幾度となく僕を助けてくれた。友人であり、理想とするプレーヤーであり、第二の父であり、そして兄のような存在だった。どれほど感謝しても足りない。まだ子供だった僕に、彼はテニスに関するすべてのことを教えてくれた。現役時代のあの見事な技術と柔軟さを僕に教えてくれた」

 カーター氏の死を通じてフェデラーはさらなる精神力を身につけたと思います。

 フェデラーが偉大なチャンピオンに至るまでのプロセスを辿っていくと、人間は運命に支配されながら生きていると感じざるを得ません。

 もしもフェデラーがスイスナショナルテニスセンターでトレーニングを積まず、カーター氏の死に出合わなくても、世界トップの仲間入りは果たしていたとは思います。

 しかしながら、地道な努力を積み重ねたことはもちろん、目の前に立ちふさがった様々な壁を乗り越え、強靭な精神力を身につけたからこそ、「史上最高のプレーヤー」の屋台骨が出来上がったのは疑いのない事実だと思います。

 私も様々な偶然によってテニスの世界に戻ることができました。テニスを通じて何か社会に貢献するために導かれたのではないかと思います。このコラムでは私なりの視点から、テニスと社会の接点、そして私自身がテニスを通じて感じたことなどをお伝えしていきたいと思います。